碧の器 1「はぁ・・」その日、ファントムハイヴ社社長・シエル=ファントムハイヴは何度目かの溜息を吐いていた。 というのも、新商品を開発しようと思い立ったはいいものの、中々そのアイディアが湧いてこない。 かといって、今更中止にも出来ない。 「坊ちゃん、失礼致します。」 ベルを鳴らしてもいないのに、部屋に滑るように入って来たのは、ファントムハイヴ伯爵家執事・セバスチャンだった。 「本日のデザートは、ガトーショコラのクランベリーソースがけでございます。」 「悪くない。」 「おやおや、仕事が余り進んでいらっしゃらないようですね?」 セバスチャンは、書類の山を前にして唸るシエルにそう言うと、一通の手紙を差し出した。 『可愛い坊やへ、今年の夏は異常な暑さですね。プリマスの街で、最近猟奇殺人事件が起きていて、被害者は皆10~13歳までの子供達です。どうか、子供達が安心して家族と眠れる夜を迎えられますように、ヴィクトリア。』 「プリマスか・・遠いな。」 「夏の休暇を取って、プリマスへ行かれてはいかがでしょう?そうされた方が、新商品開発のアイディアが浮かぶかと。」 「今すぐ身支度をしろ、プリマスへ向かう。」 「イエス、マイ・ロード。」 こうしてシエルとセバスチャンは、プリマスへと向かった。 「暑い・・」 ロンドンのキング=クロスから汽車でプリマスへと向かったシエルは、駅舎から出た途端、強烈な日差しに襲われ思わず顔を顰めた。 「こんな日差しだったら、エリザベス様から頂いた日傘を持って行けば良かったですね。」 「お前、ふざけているのか!?」 シエルがそう言って執事の方を睨むと、彼は黒い雨傘をさしていた。 真夏の強烈な日差しを浴びたシエルは、プリマスの警察署に着くまで何度も気絶しそうになった。 「あ、あなたは!?」 プリマス警察の記録保管庫に居た一人の刑事と、シエルとセバスチャンは鉢合わせしてしまった。 「確か君は、アバーライン君だっけ?」 「そうです。お久しぶりです、ファントムハイヴ伯爵!」 「どうして、君がここに?」 「異動になりました!」 「そ、そうか・・」 セバスチャンは記録保管庫から事件の捜査資料を書き写すと、被害者達の写真を抜き取った。 「では僕達はこれで失礼する。」 警察署を出たシエル達は、近くのカフェで昼食を取る事にした。 「フィッシュ&チップスか。ロンドンで食べた物よりも美味いな。」 「港町だから、新鮮な魚介類が入って来るので、ロンドンの物よりも美味しいのでしょう。」 「そうか。それにしても、事件の被害者達は皆黒髪かブルネットか・・しかも、年齢が・」 「坊ちゃんが、あの儀式に生贄にされた時と同じ年齢ですね。」 あの時、悪魔崇拝者達は全員セバスチャンに殺された筈だった。 だが、まだその残党が居るかもしれない。 シエルとセバスチャンは昼食を済ませると、カフェから出て、“ホーの丘”へと向かった。 そこは、何も無い所だった。 「確か、ここだったな。」 「ええ、確か最初の被害者・ジムはある儀式の最中に殺されたようです。」 「ある儀式だと?」 「妖精の国へ行く儀式だそうです。」 「下らん、妖精なんて居る訳が・・」 「悪魔を呼び出した坊ちゃんがそれを言いますか?」 「うるさい。」 「この“ホーの丘”は、妖精の国へと通じる“トンネル”があると、昔から噂されております。」 「時間の無駄だったな・・帰るぞ、セバスチャン・・」 シエルがそう言ってセバスチャンの方を振り返ろうとした時、突然シエルの足元の地面が光り出した。 「坊ちゃん!」 「セバスチャ・・」 シエルがセバスチャンに向かって手を伸ばそうとした時、シエルは地中深くに吸い込まれてしまった。 (妖精は、本当に居るのですね・・) セバスチャンは呆然としながら、シエルを吸い込んだ“穴”を見つめた。 いつまで、気を失ってしまったのか、わからなかった。 ただシエルにわかるのは、全身に広がって来る鈍い痛みだけだった。 「う・・」 シエルが呻いて起き上がろうとすると、右足に激痛が走った。 「セバスチャン、何処だ!返事をしろ、セバスチャン!」 シエルが呼べはすぐに自分の元に駆けつけてくれる執事は、何時まで経っても来ない。 (どうなっているんだ・・) シエルが混乱した頭で周囲の状況を確認していると、丘の麓の方から、馬車の音と人の話し声が聞こえて来た。 「カイト、本当に“ホーの丘”に・・」 「リリー、間違いないって・・」 「それにしても、こんな日に・・」 シエルは護身用の銃を取り出すと、話し声が徐々に近づいて来る事に気づいた。 海斗とリリー、ジェフリーが“ホーの丘”へと向かうと、一人の少年が自分達に銃口を向けている事に気づいた。 「誰だ、お前達!?」 「お前こそ誰だ?俺はジェフリー=ロックフォード。坊主、その身なりからして、貴族の子供か何かか?」 「僕は、シエル=ファントムハイヴ伯爵だ。」 「ファントムハイヴ伯爵・・ファントムハイヴ伯爵家の者か?」 自分の隣に立っていた恋人がそう呟いたのを、海斗は聞き逃さなかった。 「ジェフリー、どうしたの?」 「お~いジェフリー、どうした・・ってあれ、このガキは・・」 海斗達に遅れてやって来たのは、キットだった。 「キット、そいつを知っているのか?」 「知っているも何も、この子は失踪中のファントムハイヴ伯爵家の双子の片割れじゃないか!」 「えっ・・」 海斗は、思わず目の前に居る少年の服装を見た。 シルクハットに上等な外出着、そして靴下留めと、ヒールのある編み上げブーツ。 どう見ても、16世紀の服装ではない。 「どうしたの、カイト?」 「リリー、もしかしたらあの子、俺達と同じかもしれない。」 「え?」 海斗がリリーに、少年の服装を見て、彼が16世紀の人間ではなく、19世紀の人間なのではないかという事を話した。 「カイト、どうした?」 ジェフリーとキットが謎の少年と睨み合っていると、海斗が自分達の方へと近づいて来た事に気づいた。 「ねぇジェフリー、この子はきっと俺と同じなんだと思う。」 「そりゃ一体どういう事だ?」 「上手く言えないけれど・・“ホーの丘”にこの子が居るのなら・・」 「もしかして、この子も“妖精”に連れて来られたというのか?」 「“妖精”だと?」 海斗の言葉を聞いたシエルは、驚きの余り目を見開いた。 「ジェフリー、この子怪我をしているし、うちの店まで連れて行きましょう。」 リリーはそう言うとシエルの右足に触れようとしたが、シエルに邪険に手を払われた。 「僕に触るな!」 「落ち着いて、わたしはあなたを助けようとしているの。」 「助けなんて、要らない・・」 シエルはそう言って呻くと、そのまま意識を失った。 「右足は骨折しているわね。」 「“ホーの丘”でタイムスリップした時に、骨折したんじゃない?」 「やっぱり、この子の服は、この時代のものじゃないわね。ブーツはオーダーメイドだし、杖もあなたが言う通り、19世紀のものね、カイト。」 “ホーの丘”から気絶したシエルを馬車で白鹿亭へと運んだリリーは、シエルの右足の治療をしながら、海斗と話をしていた。 「やっぱり、この子の服装は薄着だから、向こうの世界は夏だったんだろうね。」 「キットとジェフリーが話していた“ファントムハイヴ伯爵家”の事が気になるなぁ。」 「後でジェフリー達に聞いてみたら?」 「そうする。」 シエルが白鹿亭のベッドの上で目を覚ますと、丁度部屋に“ホーの丘”で見た女性が入って来た。 「あら、起きたのね。」 「ここは?」 「わたしの店よ。こんな所にあなたみたいな子供を連れて来るのはいけない事だけど、緊急事態だから仕方ないわね。」 そう言いながら女性―リリーがシエルに手渡したのは、鶏肉とハーブが入ったスープだった。 いつもセバスチャンが作ってくれた料理とは比べ物にならない程の粗末なものだったが、シエルは空腹だったのでそのスープを平らげた。 「今は、何年だ?」 「1589年1月よ。それがどうかした?」 「そんな、嘘だろう・・」 |